こんにちは、服部(@FACTDEAL)です。
いつものように昼飯でも買おうと思ってコンビニに行き、いつものようにトレンドを見るべく雑誌コーナーの前を通過すると、いつものように僕と歳の変わらないオッサンたちが週刊誌を立ち読みをしていました。
ヤレヤレと思いながら通り過ぎようとしたら、あるビジネス雑誌が目に飛び込んできてたのでちょっと立ち読み。
東洋経済『AI時代に勝つ子負ける子』
いやー、親の性ですね。
まぁ、AI特集の中で発言をされている、新井紀子先生の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』という本を最近買って、AI、マーケティング、子育てにおいてかなり勉強になったということもあったので、なおさら足が止まったんですよね。
で、ゆっくり読もうと思って、立ち読みはやめてサクッと買いました。
AIに興味がある人、マーケティングに携わっている人、これからの教育や子育てを考えている人は、ぜひどちらの本も読むことをオススメします。
悲惨な大人たち
東洋経済の特集は、AIと共存していくためには、子どもには「読解力」と「論理力」を身につけさせなければなりませんよ、という話なんですが、これは何も子どもに限った話ではなく。
それは下記で新井先生が述べられている通りで。
文や言葉の定義がきちんと理解できていないと、新しい語彙を正確に獲得できないので、どんなに積み上げようとしても、積み上がっていかない。そうして大人になった人がする読書は決まっています。同じような自己啓発本を何冊も読む。それでも生活は変わらない。
実際問題、今の世の中、こういう大人が溢れてしまっているわけじゃないですか。
生活が一向に変わらない人の特徴は、
・自分が理解できる言葉にしか反応しない
・自分が気持ち良くなれる言葉にしか反応しない
・自分にとって都合の良い言葉にしか反応しない
人たちです。
で、そういったことを理解した上で、あえて語彙力の乏しい人向けの言葉を発信してコミュニティをつくる教祖と、そこに群がる信者たちという構図は今に始まったわけでもなく。
多くの大人たちがこんな悲惨な状態って、そもそもAI以前の問題だと思うんですよね。
じゃぁ、なぜこんな大人が増えてしまっているのかというと、新井先生も言われているように「文や言葉の定義」を理解できていない、あるいは、理解しようとしていないということに尽きます。
例えば、「批判の定義」
例えば、「批判」とかはわかりやすいと思うので、今回のテーマを「批判」に絞りますね。
批判に関して、なぜか
批判する人 = 悪
批判する人 = アンチ
批判 = 無視すべきもの
みたいな間違った思考パターンを植え付けられている人が多いんですが、いやいや、違いますよねと。
下記のツイートとかまさにそうで。
批判するということは、実は自分の考えに確かな自信がないということの裏返し。
1+1=3 だと言う人を必死で批判なんてしないのと同じ。 https://t.co/rdANyxxyeC
— 小林弥起@TEMPERの人 (@sc_fas_cod) 2018年5月5日
建設的な批判ではなく、カッとなったり感情的になって批判する時のことをここではイメージしています。
— 小林弥起@TEMPERの人 (@sc_fas_cod) 2018年5月7日
建設的な批判は全然いいんですけど、全然意図してない部分を取り上げられて引用リツイートされて、リプ欄で関係ない部分までdisられてたら僕は結構つらいっす。メンタル弱いので。
— 小林弥起@TEMPERの人 (@sc_fas_cod) 2018年5月7日
普通にコミュニケーションは取れる人だったので、人格を否定するつもりはさらさらないんですが、完全に「批判」に対する定義の理解を間違っちゃっていますよね。
一応、「批判」の一般的な定義を載せておくと、こんな感じで書かれています。
ひはん【批判】
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
批判の定義を間違ってしまうと、
「自分の意見や発信に対して批判をしてくる人はアンチだ!」
「批判してくる人はヒマで頭が悪いヤツだ!」
「自分とは違う考え方の意見には耳を貸す必要はない!」
となってしまい、もう新しい情報が入ってこなくなりますし、「他人の意見を一旦受け入れて考えてみる」ということすら放棄することになるので、まさしく「積み上がっていかない」という状態になります。
そうなると、ブログやツイートも何を言っているのかよくわからないし、良くて「あー、それ同じことを誰かが言ってるよね」程度にしかなりません。
そりゃそうですよね。
批判は全てスルーし、自分の考えを建設的にブラッシュアップしようともしない、つまり、何も積み上がっていかないわけですから、すでに誰かが言っていることを、さも自分の言葉のように話しても新味感なんか生まれるはずもなく。
で、そんな情報発信者の元に集まってくるのは、同じように、新しい語彙を獲得できない「わかりやすくて気持ちの良い自己啓発大好き人間」ばかりなわけです。
体は大人、頭は子ども
東洋経済のAI特集の中の新井先生の発言に、こういう一節もありました。
学校の勉強だけで語彙を増やすのは難しいと思います。子どもの語彙量は、大人同士の会話の場にいるかどうかで変わってきます。大人の表情を見ながら、言葉の良い悪い理解しますから。
生活体験を通じたリアリティも大切です。家がオール電化だと、子どもは火が熱いことを知らない。すると、学校で先生が何か新しいことを教えるとき、「火のように熱い」と説明しても、伝わらないのです。オール電化に反対しているわけでありません。親は「これを選んで失われる子どもの生活体験は何か」と意識的に考えることが重要です。
批判の定義の話でいくと、良い大人のくせに、「批判をスルーすることによって失うものは何か」「他人との議論を避けることによって失うものは何か」を理解できていないんですね。
仮に理解している人がいたとしても、メッキを剥がれるのを恐れるあまり、やはり避けるんです。
一定の読者やファン、信者がついている状態で、自分の読解力や論理力が乏しいことを悟られるわけにはいかないので。
そうなると、成長しない自分をどう大きく見せるかという似非ブランディングや、いかに情報弱者を集めるかという搾取マーケティングしか施策が打てなくなります。
全ては自分の都合やワガママ、体は大人、頭は子どもという逆コナン状態です。
情報発信者としてのリアリティの無さはこういった態度や姿勢から来るんでしょうね。
未来に紡ぐマーケティング
批判に向き合うという体験を避けてばかりだと、
「火は危険だけど、人類の叡智であり、活用次第では生活を豊かにするものである」
ということが分からないのと同じように、
「批判には中傷まがいの者もあるが、他者からの評価であり、新しい思考や価値観を与えてくれるものである」
ということが分からないままになります。
僕らの次の世代が、AI時代を生き抜くための当然の教育対策として「読解力」や「論理力」を強化していかなければならないわけなんですが、それを教えるべき大人が都合の悪いことから目をそらし、似非ブランディングや搾取マーケティングに逃げていてはいけないんですよ。
人間としての成長が伴わないということは、それはAIとは共存できない方向に進んでいくブランディングでありマーケティングなので。
大人として、次世代へ紡ぐ僕らの責任として、未来のことを考えたマーケティングをしたいですし、子どもたちのヒントとなるようなブログを残したいものです。
逃げ続ければ逃げ続けるほど、僕ら自身、そして子どもたちへの代償は大きくなりますから。