こんにちは、服部(@FACTDEAL)です。
ちょっと気になった記事があったので、それについてコンサル的な視点で記事を書こうかなと。
介護事業をしている彼がシェアしていて、僕も介護分野のコンサルティングをしていたこともあったのでスルーできなかったんですよね。
ただ、刺さる内容だったんですが、完全同意というわけでもなく。
表立ってこういった内容はテレビやニュースでは流れにくい。
確かに、障害者は生産性がないと思われがちやけど結婚して子供産んでる人もいっぱいいるからね‼︎ https://t.co/IIJCLztWQI— 宮本マコト (@OTTO_LLC) 2018年7月29日
生産性の定義と三段論法
生産性って、投入した時間、労働、資金に対する成果がどうかっていう話じゃないですか。
なので、求める成果が何か、それが誰にとっての成果なのかによって、生産性の有無って決まると思うんですよね。
マーケティング的な考え方ですが。
それでいくと、LGBTや障害者が「生産性が無い」っていうのは、少子化問題を抱える国にとって「生産性が無い」っていうことなわけです。
あるいは、少子化によって利害的な影響がある人たちにとって生産性が無いと。
なのに、
「障害者 → 生産性が無い」
「生産性が無い → 価値が無い」
だから「障害者 → 価値が無い」っていう三段論法に持っていくからおかしくなってしまうんですよね。
ちなみに、三段論法っていうのは、「A → B」、「B → C」、ゆえに「A → C」であるっていうやつなんですが、Bをはじめとする各事象のが定義されていなければ議論になるはずがなく。
なので、
「生産性の有無」という議論の土俵に乗ってはいけないと思っています。何かができるということは素晴らしいことです。しかし、それが支援を決める指標になってはいけないのです。
この主張に関しては同意できます。
障害者にも生産性は必要
ただ、この部分に関してはちょっと違和感が。
何かができることと、生きていることは別です。なぜ支援が必要なのか。人間の価値ってどこにあるのか?が問われるべきことです。
障害者は生産性があるかないかじゃなくて、生きていること自体が一つの価値であると私は思っています。
その先に社会の中でどう生きていくか、周囲との関係、尊厳がある生き方ができるかどうかという問題がある。人の価値を生産性で語るのは偏狭な価値観だと思うのです。
うーん、これこそが社会と障害者との距離を隔てる偏狭な考え方じゃないのかなと思うわけです。
このツイートもそうですが、障害者が自分自身のことを特別扱いしてどうするんだと。
「生産性がない」って本当にパワーワードですね…。私は身体に障害があって未婚で子供も生んでない、となるとよりこの言葉が重いです。
ただ、「子供が産める」や「○○が出来る」ことが人間の価値決めるものではありません。生きることに価値があるのだと、私は思っています。— 森田かずよ Kazuyo Morita (@katsuomaru) 2018年7月23日
障害者だからといって「生産性」という言葉から目をそらして、生産性の追求を怠っても良いのかというと、そういうわけではないじゃないですか。
自分が、時間、労働、資金を投入する、あるいは投入してもらった中で自分が出せる成果は何かを追求していかなければならないと思うし、思うような成果が出せなかったとしても、そのアクションやプロセスこそが価値になるのではないかと。
生産性って、投入した時間、労働、資金に対する成果がどうかなので、求める成果が何で、誰にとっての成果なのかによって価値の有無って決まる。
だから、誰かにとって価値がある生産性を追求すれば良い。
ただ、「生きることに価値がある」は価値を生み出す努力を怠る思考停止の考え方かなとも思う。 https://t.co/VRwM6HDkbQ
— 服部慎也 (@FACTDEAL) 2018年7月29日
・生きているだけで良い
・生きていることに価値がある
・あなたはそのままで良い
といったようなことは、そう願う人が言うことであって、本人は周りの人間が主張することではないと思うんですよ。
障害者だからって「生きているだけで価値がある」っ甘やかすのは違うと思っていて。それは生きていて欲しいと願う人が言うことであって、本人や周りが言うことではないかなと。
社会で生きている以上、誰もが適したジャンルやカテゴリーを見つけて生産性を追求して欲しいし、価値を提供して欲しい。 https://t.co/2RKQv1YNDF
— 服部慎也 (@FACTDEAL) 2018年7月29日
障害者はマーケティングを勉強しろ
もし、「障害者は生きていることに価値がある」、「生産性があるかないかなんてどうでも良い」という考え方が一般化したどうなりますかね?
例えば、障害を持つ子が、親から「あなたは生きているだけで良い」と言われ続け、それ以外の価値を探そうとせず、何らかのジャンルにおいて生産性を高める努力を怠ったら?
その状態で親が死んでいなくなってしまったら?
その時点で、この障害を持つ子は自分の価値を見出せなくなってしまいます。
障害者を過剰に支援することや、障害者自身が「私はこのままで良い」と思ってしまうことは、自立を阻害し、社会との距離をどんどん隔てることになるんじゃないですかね。
言葉は悪いかもしれませんが、「オマエら売れるようになれ!そのためにマーケティングを勉強しろ!情報発信をしろ!」と、成功している障害者や影響力のある障害者がガンガン発信して欲しいですね。
過保護になるのではなく。
誰かが求める生産性において成果が出せないのであれば、誰もが障害者です。
世間一般的に多くの人ができるのに自分にはできないことなんてたくさんあるわけじゃないですか。
だからこそ、自分が人の役に立てることは何か、世の中に提供できる価値は何かを考えて行動しなければならないし、結果がどうあれそのプロセスに勇気付けられる人もいるわけで。
こういう問題って、「生きること」や「存在」という抽象度の高い論点になりがちですが、こういう問題こそ「マーケティング」という切り口で議論すべきでしょう。
子どもを生める人、生みたい人はそのジャンルで価値を提供すれば良いし、それ以外の部分で価値を提供できる人は、そこで生産性を高めていけば良いんです。
記事を読んでくれた人の感想も貼っていきますね。
生きてるだけで価値があるけど、どう生きてくか選択できる力を手に入れるようにするのは間違ったことじゃない。
うちの父は、そういう力を付けさせることが支援だと言ってた。
で、かなりの人がそういう力を付けることができたはずだけど、できてないのが問題。 https://t.co/bXUqPBcvOS
— Mayu (@mayuchinsan2) 2018年7月29日